1952年 ヘルシンキオリンピック 〈日本女子選手11名の記憶〉

1952年 ヘルシンキオリンピック 〈特別寄稿〉 日本女子選手11名の記憶 文と構成:金光貞幸

 
第2次大戦終結から7年後、日本が連合国と平和条約を締結し主権を回復した1952年(昭和27年)の夏、第15回夏季オリンピック大会は7月19日から8月3日までフィンランドの首都ヘルシンキで開催されました。
参加国は計69ヵ国、選手数5900人余を数え近代オリンピックの開催史上空前の参加数でした。
日本はベルリン大会以来、実に16年ぶりに復帰参加、72名(陸上19、水上27、自転車4、体操5、ボクシング2、レスリング5、ボート5、射撃1、馬術1、フェンシング1、重量挙1、ヨット1)の選手が出場しました。
1952年 ヘルシンキオリンピック 〈特別寄稿〉 日本女子選手11名の記憶
敗戦国である日本の五輪復帰もさることながら、この大会最大のニュースはソビエト連邦共和国の初参加でした。ソ連は帝政ロシア時代に一度選手を送ったことがありましたが、共産革命後は初めてのことであり、スポーツに関する限り厳しい東西冷戦の鉄のカーテンが一見開かれたかのようかに見えました。
また中華民国、中華人民共和国が共に参加を許されながら中民は中共とは同席できないと参加を中止しています。
TOLだより31号20p_1952ヘルシンキオリンピック水上代表
この年、英国は核兵器保有を公表、米国は人類史上初となる水爆実験を行いました。また「アンネの日記」が出版されたのもこの年でした。
そのような世界情勢のなか、「平和の祭典」へ参加すべく遥か北欧の地へ11名の若き日本女性選手が日の丸を胸に旅立ちました。
当時は男子61名に女子はわずかに11名の日本代表選手団でした。ちなみに64年後のリオ大会は男子174人、女子164人と大きな差はありません。
本号ではヘルシンキ大会に出場した彼女たちから寄せられた当時の貴重な記憶、思いをご紹介します。最後に、惜しくも故人となられた3名のオリンピアンに謹んで哀悼の意を表しながら、1952年の記念すべき大会の今なお色褪せない「残すべき記憶」にふれてみたいと思います。
文と構成編集:金光貞幸
本記事はTOLだより31号より転載されています。
貴重な出場女子選手からの寄稿は31号本誌でご覧いただけます。
22P「悔しい思いをしたヘルシンキ五輪」 桑原 美代(旧姓 宮下) 陸上競技
24P「1センチの明暗」 星野 綾子(旧姓吉川) 陸上競技
26P「溺れから五輪へ」 齊藤 美佐子(旧姓田村) 競泳競技
28P「ヘルシンキの思い出」  東 政代(旧姓 青木) 水泳 競泳
30P「戦後初のオリンピック」  矢野 まさみ(旧姓 宮本) 水泳 飛込